八木蛇落地悪谷

広島の災害で地名の話があった。
そもそもあの災害区域の1つの地域が「八木蛇落地悪谷」という地名だったとか。
本当にそうだったかのかどうかは別として、
先生から借りていた本の中に、興味深い記述があった。

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 戦後の日本社会が高度経済成長を背景に、「家」や「個人」ではなく
<マイホーム>という単位を社会構成の準拠点とし、
かつ機能的な単位として操作する大衆消費社会として始動したことは、
すでに内田隆三が指摘している。わが国における大衆消費社会は、農村を離れ
都市において給与生活者(サラリーマン)として生きるほかなくなった
人びとが試みた、ささやかなしかし無数の<マイホーム>の
形成を通じて成立していったのである。


 だが、このようにして大都市とその郊外に形成された<マイホーム>は、
構造的に見た場合、貨幣による自律-----給与を基盤として
消費生活の主体となること-----のひきかえとして、外部に支えのない
きわめて不安定な状態にあった。
なぜなら、<マイホーム>は旧来の「家」とは異なり、
村落共同体の空間的な紐帯(地縁)からも、先祖の位牌に
象徴さるような時間的連続性(血縁あるいはその擬制)からも
切り離された抽象的な場所のうえに形成されていった-----
この点は藤原新也も同じ趣旨の指摘をしている-----からである。


 それはたとえば、電鉄を母体とする不動産会社の沿線開発がもたらした
Xヶ丘、Y山手、Z台などの住宅地に見られるように、
「夢や、希望や、光や、緑や……といった、実体の不明な記号を
名前にした、匿名の空間」であった。
若林幹夫が分析しているように「○○台」や「○○ヶ丘」といった
郊外住宅地の名前は、「土地の歴史や記憶」を想起しうる
ような固有名詞ではなく、土着性や地域性から遊離している点に特徴がある。
その意味において、これらの地名は「土地に根ざしているのではなく、
不動産市場における商標」であり、「商品に囲まれて営まれる郊外の
生活は、初めから土地や建物の商品として売買する資本体制のなかにある」
と考えられよう。


山本理奈 『マイホーム神話の生成と臨界』 岩波書店 2014年 pp155

マイホーム神話の生成と臨界――住宅社会学の試み

マイホーム神話の生成と臨界――住宅社会学の試み

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資本主義社会、消費と利益、何事もモノとしてみる経済社会の構造は
様々な場面で歪みを生じさせることがある。
災害で犠牲になられた方々のことを思うと何も言えない。