専修免許状の実際

市大のサイトで「卒業者の教員免許状取得状況及び教員就職状況(過去5年間)」というデータがあった。
http://www.osaka-cu.ac.jp/ja/education/class/files/kyouinnjoukyou26.pdf
それには、年度毎の卒業者および修了者のうちの乗員免許状取得者数と
その内訳(校種)が学部毎・研究科毎で示されている。
実人数は教員免許状を取得した人数のことで、
例えば、ある学生1人が「中学社会」「高校地歴」「高校公民」を
同時に取得した場合、内訳では3とカウントされるが、
実人数として1人と換算される。


経済学部では、平成21〜25年度で6→2→2→9→2(人)という推移である。
卒業者数はおよそ230〜260人程度なので、
年度毎卒業者数における教員免許取得者率は0.93〜3.3%である。


経済学研究科では平成21〜25年度で1→1→1→0→0(人)という推移で、
過去5年間で「中学社会」「高校地歴」「高校公民」を専修免許状で
揃えた学生は居なかったようである。
総じて学部では一種免許状の取得が文学部と理学部で多く、
研究科では理学研究科が最も多い傾向で、次いで文学研究科となっている。
また内訳(校種)も文学研究科では社会科に関してもバラバラである。


こうしたデータから、
経済学部で教員免許を取得する学生が意外と少ないと感じたこと、
そして校種も社会科3種同時というものでない傾向であること、
また文学部でもおおよそ同じ事があり、研究科に至っては、
その傾向が文学・経済学共に顕著になるということが分かった。


最後に私の感想であるが、
社会科3種を揃えても、それらを専修免許状に更新しても、
何らメリットは無いし、取得に要した時間と労力は無駄な努力である。
初任で修士身分で着任なら給与は少し跳ねるが、
途中で専修に切り替えてもそれは無いらしいし、
専修免許状を取得したところで現場での格が上がるとか、
評価されるという事はない。
何のための「専修免許状」であるかは、「大学院修学休業制度」
として文部科学省が示す通りである。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyuugyou/syuugaku.htm
文部科学省が言う「期待される」という点とは何であろうか。
それは、文部科学省の文言の通りである。


「日々の教育活動を通じて培われた問題意識について、大学院での
専門的な研究や分析に基づいて理論的・体系的に整理することにより、
より高度な実践力を身につけることが期待されます。」


問題意識に端を発する疑問について大学院で修練し、
より高い専門知識とそれに基づいた実践力が
教育現場でよい影響を与えるというのは至極尤もなことである。


しかし、実際に実質的な評価もされず、ギャラにも反映されず、
所得は一時的ではあるが打撃を受け、短い2年間で修士論文を作成しながら
専修免許状取得に要する単位に翻弄され、挙句の果てに
「何のメリットもありませんよ」となると、
テキトーに過ごす2年間になるかも知れない。
むしろ要領の良い人間なら要領よくそうするだろう。
その反映が例のデータから垣間見られるかどうかは定かではない。


私は全部を専修免許状に揃えれ、激烈な教職課程をヤットコサ修了し、
今後はお気楽な身分(もう教職課程という単位に振り回されない)になった。
一般的な評価からすると無駄な努力をしてきたと認識している
(自分でもよく分かっている)。


それを何故したのか?と問われることもある。
それは…
進んだ以上、止めるに止められなかった。
また、どうせいろいろな事をする機会があるのなら、
損得関係無しにやっていたら、いろいろ想定外の発見や収穫もあるだろう。
…という単なる希望的な期待を持っていただけであった。
その結果が現在である。
近代日本もそういう感じだったのかな?
ただ1つ思う事は、その無駄な努力以外にいろいろな事をやって経験してみて
視野はかなり広くなったと感じるし、それは有益なものだったと確信している。

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