戦時体制という現実


本館地区の学舎は(大学施設の場合は校舎よりは学舎の方が呼称が
相応しいらしい)、1934年(昭和9年)に竣工しているが、
現在の国会議事堂は1936年(昭和11年)ということであった。

【出所】http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Japanese_diet_outside_Kokkaigijido-1946.gif


この国会議事堂、暖房はボイラーを使って間接暖房(エアコン)だったが、
冷房は氷を融解して、その冷水にて空気を冷却するというシステムだったようだ。
その理由は、国会での議会は主に冬場に開催されるので、
大規模な冷房設備は不経済ということで、そのような方式を採用したらしい。
(『新建築』1936年を参考)


商科大学(市大)も国会議事堂も竣工した頃は、満州事変、226事件
日中戦争と、目まぐるしく戦時体制への道程を歩み始めた頃である。
建築計画時の設計理念と竣工後の現実とは、ダイレクトに嚙み合わなかった
だろうと推測する。調査研究中の市大モダニズム学舎の歴史にしても、
戦時体制期と占領下の接収時代を経ているので、現代の市大施設の
竣工草創期の理念は、極めて失われているという事実がある。
結局、自分の紀要は大学史における黒歴史を語るに尽くすものかも知れないが、
戦前戦後という転換期の日本の歴史の断片を垣間見る点と、
そこから戦後史を改めて再考する価値があるという点では、
研究の意義はあるものだと感じている。


写真の国会議事堂は、戦後直後の食糧難で職員さんが芋畑を
耕している様子である。建物には空襲避けで迷彩で塗られている。
大阪商科大学も戦時中は、どうも迷彩に塗られていたようだ。