浅香浦


いつもの道を通って大学へ向かうのではなく、
JR浅香駅を経由する巡検をしながら登校した。



大和川浅香周辺の大蛇行している場所。
ここは別称で「千両曲がり」とも呼ばれている。
大和川掘削の予定線に住吉近辺のお金持ちがたくさん居たので、
自分の土地が川床にならぬよう千両場箱を積んで河川路を変更させた
という由来であるが、実際にはそのような事実は史料にない。
この辺りの掘削工事は難航を極めたようである。
上町台地の土地が高い場所で、なかり固い地盤なのである。
掘削しやすく、かつ流路が大阪湾に向かうほど下降してくように
するために、現在のような蛇行した川筋になったようだ。




蛇行部分に近付くと大阪市立大学が見える。
ちょうど裏側の一号館も見える。



大和川の土手を散策した後はJR浅香駅に向かう。
ここら辺は複雑な地形で土地が入り組んでいる。高低差も激しい。
浅香駅浅香山の台の上にある。
1990年代初期まで、この駅の奥に駐輪場があった。
少々鬱蒼とした草地だったような記憶がある。
その頃までは草地や小さい森があったような気がするが、
今はマンションや新しい一戸建てが立ち並んで、当時の面影はない。
駅の隣のマンションができる前に美味しい中華屋があって
ラーメンとチャーハンがお気に入りであった。
千林ラーメンだった。それから塩ラーメンが好きになった。
立ち退きに遭ったのかどうかよく分からないが
風の噂でその中華屋は別の場所で再開店したらしいのだが今はない。



そして浅香山稲荷神社へ行く。
昔、この地は大阪湾の小さな入り江で浅香浦よ呼ばれていたらしい。
そもそも「浅香」という由来は神社の能書きに書かれている通りだが、
かなり風光明媚な場所であったようだ。


  夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の
  浅香の浦に 玉藻刈りてな

  (弓削皇子 万葉集・巻2-121)




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浅香山稲荷神社 由来

 昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代(590年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より此処に埋まる香木有り、と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以降この地を「浅香の浦」と呼び、その香木で老翁の像を刻みここにたて祀られたのがこの神社の創始と言われています。


 後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます豊受大神と異名同神と言われています。


 時移り世が代わって宝永年間(1704年)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保大隅守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘ったところが翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手出しも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させるに至りました。


 後、宰領大隅守は神威を恐れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。尚、現神殿は、昭和51年7月に改築完成されたものです。


 神前の一対の石燈籠は大久保大隅守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時の川口奉行等の寄進によるものです。


以上

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『写真アルバム 堺市の昭和』(2012年)には、昭和30年代に
撮影された浅香駅の写真がある。


そうして、いろいろ巡って、やっと大学に着いた。
堺市浅香地区には何度か足を運んでいるが、
改めていろいろな発見があった。いつか何か書けそうだ。

地形からみた歴史 古代景観を復原する (講談社学術文庫)

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地形環境と歴史景観―自然と人間の地理学

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