戦災無縁地蔵尊

「戦災無縁地蔵尊」。
堺空襲は第4次が一番凄惨を極めた。
第4次堺空襲は「作戦任務第258号」である。
http://d.hatena.ne.jp/yatakarasu/20150304


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「堺戦災遺跡 戦争の傷跡(戦災無縁地蔵尊)」


 昭和20年(1945)、日本は戦争の敗色が濃くなり、全国の主要都市の
空襲はいよいよ激しくなりました。堺市も3月13日、6月15日・26日、
7月10日、8月10日の5次にわたって空襲をうけました。
なかでも7月10日未明の第4時空襲は、当時の市街地の大半を焼失し、
3千人にのぼる人々が死傷するという大きな被害があったため、
堺大空襲と呼ばれています。
 その時の被災地のなかでも、このあたり一帯は最も凄惨を極めた地域で、
焼夷弾による炎と軍需工場から吹き上げる黒煙に包まれ、
逃げ場を失った多くの人たちが悲惨な最期を遂げました。
 戦後間もなく、地元の有志の方々により被災者の供養がなされ、
さらに昭和29年(1954)には、保存会により地蔵尊が建立されました。
 堺市では、二度と戦争を繰り返さないことを祈念して、
ここの銘板を設置するものです。

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このあたりは、かつて南海本線龍神駅(堺駅)と
阪堺の大浜支線がクロスしたところで、
近隣に大浜があり、宿院に次ぐ堺の繁華(遊興)街として、
人々の往来も多かった。
堺市史』などで概要は知っているが、具体的な状況はよく分からない。
言えることは、第4時空襲・堺大空襲、すなわち「作戦任務第258号」は、
堺の都市の発展的・歴史的断絶と多くの生命を奪った事実に他ならない
(建物疎開の影響に加えて悲劇的に都市破壊を促進したとも言える)。
このあたりの掘は熱湯化したらしい。今では考えられないような風景である。


3月20日に元堺病院跡地に観光施設がオープンする。
ほぼ施設は完成している。
「戦災無縁地蔵尊」のあとに「さかい利晶の杜」。
この歴史巡検のギャップは凄かった。


そしてドンドン北へ向かうと、内田家住宅でイベントをしていた。
ひさしぶりに内田家主人と歓談する。



ようやく学内に入って明日の発表の準備をする。
退去するどころか、さらに研究室化してる有様になった。
今夜は徹夜やろうな。