米国戦略爆撃調査団文書・作戦任務第258号

米国戦略爆撃調査団文書をよく見るのだが、
これら史料を整理して翻訳してまとめた本があった。

米軍資料 日本空襲の全容―マリアナ基地B29部隊

米軍資料 日本空襲の全容―マリアナ基地B29部隊

元関大教授で日本近現代史の小山先生であった。


堺市は5回の空襲があり、とりわけ第4回目の空襲では
完全に市街を廃墟と化した。死者1,860人で死傷者は合計18,009人、
全半焼家屋は18,446戸、罹災者数はおよそ70,000人にも上った。



1945年6月の堺市街地。
【出所】 Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Osaka Report No. 3-a(27), USSBS Index Section 7


上記文書と小山仁示『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』
によれば…

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作戦任務第258号
(1945年7月17日)
日付:1945年7月9・10日
目標:堺市街地
参加部隊:第73航空団
出撃機数:124機
爆弾:100・500ポンド焼夷弾
投下爆弾トン数:第1目標778.9トン、臨機目標19.6トン
第1目標上空時間:1945年7月10日01時33分〜03時6分
攻撃高度:10,000〜11,350フィート(およそ3,048〜3,460m)
損失機数:0機
作戦概要:北東から強い地上風により堺市内に火災が集中。
乗員は火災の赤熱光をほぼ200マイルにわたり目撃した。
煙の柱が17,000フィート(およそ5,181m)上空まで達した。
目標を目視できたのはわずか5機で、6機が無効化出撃。
鉄器15機視認し攻撃回数は5.目標地域にサーチライトは約20。
対空砲火は5機のB29に損傷を与えた。


【出所】 小山(1995)pp.187~188を参照し、要約した。

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また総務省「一般戦災ホームページ」にある
「堺市における戦災の状況(大阪府)」には、こう記されている。

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 第3次空襲からわずか半月後の7月10日午前1時30分ごろ、
突如としてB29数機が大阪湾上から堺市南西に侵入、
東北方面にかけて斜めに通過しながら焼夷弾の雨を降らし、
たちまち大浜、竜神宿院一帯が猛火に包まれた。
 これを第1波として約1時間半にわたり、約100機が数機ずつに分かれ、
主として油脂および黄燐性の焼夷弾による波状攻撃を加えたことにより、
旧市内は完全に火の海と化し、土居川の水さえ熱湯となり、
川面に飛び込んだ人々の死体で埋まり、龍神駅付近においても
逃げ場を失った数百人の市民が一団となって焼死を遂げた。
 この空襲で1,860人が死亡し、18,000余の家が焼失、
罹災者は7万人にも及ぶ大きな被害を受けた。(第4次空襲)


【出所】 総務省「堺市における戦災の状況(大阪府)」

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1948年2月の堺市街地(一部)
【出所】 国土地理院空中写真