ずっとそばにある本 ⑦『ワンス・アポン・ア・タイム・イン 尾道』 大林宜彦 フィルムアート社(1987年初版/1992年第5刷)定価1,800円(税込)

映画を観るのが好きなのだが、ある監督の映画を

継続してみたという点では大林の作品が代表的である。

本書では「尾道三部作」を中心に台本の台詞をすべて載せながら、

映画シーンや撮影時のスナップ写真の解説もある。


音楽と映像の色使い(モノクロ・セピア・淡いカラー)に
独特なものがある映画は、なかなか撮れないだろう。

大林の作品は、いちおうハッピーエンドであるが、

何故かどことなく切ないものがある。

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私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。

ずっとそばにある本 ⑥『新総合国語便覧』 第一学習社(昭和53年初版/昭和60年9版)定価580円(消費税導入前)

これは、通常の書籍ではなく、学校の図書で国語科の資料集である。
しかも、「審査用見本」である。

教科書や資料集は、その正式な発行にあたり、事前に学校側へ参考として

このようなものが送られてくる。教員は、幾つかのものを選定して、

次年度の教科書や資料集などを決めるのであるが、この本もその1つである。

私が高校生の頃、何気に校舎の裏を歩いていたら、

大量の本が捨てられていた。

「何だコレ???」と思いながら物色していて、拾った本がこれである。

この国語便覧を自分の専門教科外にかかわらず手元に置いていたのは、

その内容が非常によくできていて面白かったからである。
細かい部分まで正確にまとめられていて、写真も綺麗である。
夏目漱石芥川龍之介の解説については、その作家の人生の表裏を

分かりやすく解説されている。芥川が恒藤恭と親しかったことは、

市大に入学する前から知り、まさか大学史資料室という場で、

恒藤恭についての研究のほんの一部(デジタル化など)をお手伝いしたことは、
この本と何らかの縁で繋がっているような気がした。

武蔵野の写真は、素晴らしい。
小さい写真であったが、「武蔵野」のイメージを増幅させるものである。


学校という現場では、さまざまな紙物質があり、
その多くが、塩漬け・放置・破棄・放置されているように思える。

現場によっては、(異常なほど)酷い状態があるのは事実…。

当時、たまたま職員室か準備室の大掃除で出たものであろうが、

縁あって手元にあることに感謝している。そうした縁がある本なのである。

そういえば、前任校でも教科書選定にあたり、

この教科書を推挙した。

しかし、結果は見送られたけれども、内容は生徒にとって新鮮かつ、

教える側にとっても新学習指導要領の則れば、いいものである。

高等学校公民科 公共 - 教育図書教育図書


私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。

 

 

 

ずっとそばにある本 ⑤『中国任侠伝(正・続)』陳舜臣 文集文庫(1992/1994)

本書では、「任侠」といっても、日本で想定されるヤクザを指すものではない。

ここでの「任侠」とは、「義」を重んじること、
例えば他人のためには自らの命さえも顧みない行為、
ある志を遂げるために尋常ならざる決断を実行することを厭わない信念を指す。

始皇帝暗殺で有名な「荊軻・一片の心」のほかに、先に述べた「義」を
重んじる人々の人生模様が短編集として集約されている。

「自分もそうして何かに人生懸けたい!」と誰も?が思うだろうが、

なかなかそう甘くはない。「何かを得れば、何かを失う」という、

その覚悟が必要なんじゃないかと、何度か読み返してそう思う。

 

中国の歴史など知らなくても、物語の面白さに魅かる書物である。

実は、この本は2回目に購入しもので、最初に購入したものは…棄てられた。

その馬鹿馬鹿しい軽んじた行為を目の当たりにして、それからわたしは…

「自ら大切なものと思うものは、

 絶対に他人に触れさせない」

…ということにしている。この本もそうである。
私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。



ずっとそばにある本 ④『梅雨将軍信長』時代科学小説短編集 新潮社(1982/第10刷)

 新田次郎は、山岳小説で有名だが、時代小説も書いている。

この本は、題こそ『梅雨将軍信長』であるが、さまざまな時代短編小説が
積み込まれている。

 

 どちらかと言えば、私は短編小説の方が好きで、

電車の中でも読めるし、簡潔かつ分かりやすく物語が起承転結していく

内容が好きである。

 この本の他に、幾冊かの新田の時代小説を持っている。

yatakarasu.hatenadiary.org

 

そもそも新田小説のと出会いは、自分が登山好きということでなく、

中学校の先生が読書せよと与えられた本が新田次郎の『縦走路』であった。

最初は何がなんやら分からなかったが、その後にいろいろあって、

読書の習慣や文章を書く面白さが能力として開会したように思える。

自分がこうして博士課程にまでいった(人生の幸不幸は別として)ことは、

あの中学校の先生のおかげである。
今、どうされているのか…、一度お会いしたいと思いながら現在に至る。

 新田の時代科学小説については、かなり以前の勤務校の図書冊子で、

執筆を依頼されたことがある。その全文を載せておこう。

私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。

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 私は中学から大学と山岳(登山)部に入っていたこともあって新田次郎の著作を早くから読んでいた。新田は『劔岳 点の記』や『強力伝』などといった山岳をテーマにした小説家としてよく知られている。その新田が歴史上の科学者や技術者について、あるいは科学をテーマにした作品も手掛けていたことをご存じであろうか。新田はそうした小説を「時代科学小説」と位置付けていた。
 ここに紹介する本は短編小説集であり、気象・物理・航空・高等数学を扱った作品が含まれている。例えば雨と信長の運命的な関係を描いた『梅雨将軍信長』、漏刻(水時計)をめぐる蘇我氏天皇家の権力闘争を取り上げた『時の日』、江戸期の和算を題材にした『算士秘伝』や『二十一万石の数学者』がある。その中で時々読み返すほど印象に残っている作品が『赤毛の司天台』である。
 登場する主人公は身なりの汚い浪人者である。彼の天気予想はよく的中するということで市中でも評判であった。そうした浪人者が妻を迎えたことで不潔な身なりは見違えるように綺麗になったのだが、天気の予想は当たらなくなってしまった。しかし妻の髪の毛の特徴的な現象が浪人者の天気予想へ執着を目覚めさせる。
 科学は真理の追究である。新田の時代科学小説は人間の自然に対する飽くなき挑戦を描くと同時に、権力や偏見、欲望が渦巻く人間社会に対する批判も込められているように感じられる。

 

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ずっとそばにある本 ③『見る・読む・わかる 日本の歴史5 自分でやってみよう』朝日新聞社(1993)

『見る・読む・わかる 日本の歴史5 自分でやってみよう』朝日新聞社(1993)

定価は2,000円。高校生向け資料書としては随分と高い本である。

この本では、野外調査や博物館資料、美術品、石碑など、幅広い資史料対象を

扱いながら、そこから何を読み取り、どう調査して研究(探究)していくかという

示唆に富んだ内容となっている。よって内容は割と高度である。

新田義貞稲村ケ崎の干潟を渡った件、住吉を中心とした景観の変遷、

戦争を石碑や記録から読みよく件…など、大変興味深い。

この本は、飽くまで学習する側へのものであるが、各々の執筆者の最後の下りが
今の私にも通じている。

 

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(要約、小学生の頃の歴史の先生が歴史は本に全て書かれているから、

この本で全て把握できるということに筆者は、

それでは歴史に調査や研究は必要ないのではないか?という疑問を持ち)

…歴史は暗記もので、年代と人名さえ覚えておけばよい、
という考えも、実はこれ(要約)とあまり違いない。

歴史は決してそんなものではないのだ。

今度テーマに選んだ新田義貞鎌倉攻めの物語を一つとってみても、

事実の暗記だけでは何にもならないことがおわかりになるだろう。

これまでの歴史家や学者たちの成果に学びながら、

しかもそれをうのみ(鵜呑み)にしないで、できるだけ自分の頭を使って、

さまざまな角度から考えてみる。

そこに歴史の本当の楽しみがあるのではないか、と私は思う。

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歴史は一つではない、ということです。

直感でもって、こうだと思っても、もう少し他の視角から考えるようにしないと、

とんでもない誤りをすることがあります。

一見、わかったような結論はほとんどが意味を持たないことが多いのです。

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村の石造物調べはおもしろかっただろうか。

今までの知識としてあった歴史認識とは異なった、

より身近な事実を知ることができたと思うのだが、どうだろう。

この一文(紹介資料)は、ひとつの糸口である。

さらにより詳細な分析、また文献資料等を援用することによって、

きっと、より新鮮でより深い歴史の理解に到達するに違いない

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あと、いろいろ書かれている。

この本の購入は、今から30年前であるが、何となく自分の研究スタンスに

通じている。

 

対象を見る角度、さまざまな資史料を探る、ひらすら探る。

新しいやり方や見方(電子機器・国外資料など)を積極的に駆使する。

そうした方法を示唆してくれた本である。研究に終わりはない…ということか。


私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。

 

 

ずっとそばにある本 ②『秋に寄す』芸術新潮(1988)

今日は特別勤務。

いつもと異なる雰囲気での職場であった。

長らく居ながら、さまざまな先生とお話をしつつ、

こてまで言葉も交わさなかった先生方とも交流する機会も得た。

 

そうした中で、たまたま「美術(科目)」の先生と交流した。

その交流は、コチラは地理学、アチラ美術(科目上の建前)として、

いろいろなお話ができた。

たまたま、「野々村仁清」についてお話をしたので、ここに記す。

『秋に寄す』、芸術新潮、1988年10月号、定価1,000円

「日本の秋」といえば…ということを意識した雑誌である。



その中に「野々村仁清」の作品があったのを覚えている。

「月とススキ」、「武蔵野と雑木林」、「村落と里山」…
美意識と対面して、経済や開発を主に考える私にとって、

その先生との会話は、新鮮かつ素直であった。

なお、この雑誌には「山暮し 秋の味」という項目がある。

この「玄米おにぎり」が、この本の30年を経ても「憧れ」である。

執筆者は、具は「鮭」か「梅」とあり、嫁は「おかか」もいいという。
いずれにぜよ、「タクアン」は必須。

いつか、これを思いっ切り食いたい(頬張りたい)と願って30年か…。

私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。


 

 

ずっとそばにある本 ①『色の歳時記』(1988)

これまで、断捨離の一環として大量の本の処分もしてきた。

やはり本が体積・重量ともに大きな存在であった。

何冊かの研究本まで処分してきた。
何年も塩漬け状態であった本、勢いで外に出した本など

数を数えきれない。

そうした中で「これだけは譲らない」ものが幾冊かある。

 

『色の歳時記』目で遊ぶ日本の色

朝日新聞社編、昭和58年初版、昭和63年第14刷、定価2,600円

この本との出会いは、地元の図書館であった。

何度か借りては返すということをした覚えがある。

購入したのは、1989年か1990年頃だと思うが、

当時はバブル景気全盛期でありながら、ビンボーな生活をしていた。

そうした中で、2,600円の本を買った。

「色」にも言葉通りに「色々」あり、日本の風土、伝統、文化、季節とマッチングした

色の解説や写真が面白かった。赤・白・黒・青・緑、黄・紫など、

日本の文化のなかでは、これだけの種類があるのだと感嘆した。

 

私はこの本を、いつまでも、売らないし、捨てないし、貸したり、譲らないであろう。